堅く閉ざされた扉の前で、秀麗はかれこれ半刻ほど立ち尽くしていた。
もっとも、今の彼女にいかに長い間自分がそうして扉の前に突っ立っているのかを理解する余裕は無かったのだが。

あああありえないわ!
あの清雅が!
まさかあの清雅が!!

先ほど扉越しに聞こえてきた会話の内容は、室内で起こっていることを秀麗に想像させるには十分すぎた。
女性不信の彼があんな行動に出るのもありえないが、こんな誰が聞いているともわからない(実際自分には聞こえてしまった!)後宮の一室で行動を起こそうとすることもありえない。
あれほど他人を蹴落とすことに執念を燃やす清雅が、僅かでも誰かに弱みを握られる可能性のある行動をこんなに簡単に取るだろうか。

まさか、まさかね。
そんなことあるはずないわよね。
あの清雅が、こんな所で、あんなこと―――。

しかしそれでも先ほどの会話が頭から離れない。
どう考えても、あの会話は……

駄目よ。しっかりしなさい、自分。
その先は考えちゃいけないわ!
本来は彼の弱みになり得る情報を掴んだことを喜ぶべきなのだ、ということはすでに秀麗の頭の中からすっぽりと抜け落ちていた。





「それでは、私はこれで。貴重なお話をしてくださり、ありがとうございました」
「あら、もうお帰りになりますの?」
「ええ、仕事が残っていますから」
「そうですか…。では、またいらしてくださいね。貴方なら歓迎しますわ」

やばい!
自分が扉の前で悶々と悩んでいる間に、清雅の用事はもう終わってしまったらしい。
もし立ち聞きしてたなんて清雅にばれたら、何て言われるか!
秀麗はあわてて扉の正面から飛びのいた。

先ほどまできっちりと閉ざされていた扉が大きく開け放たれ、あの涼しい善人の仮面を顔に貼り付けた清雅が姿を現す。
秀麗はできる限り、いかにも部屋の扉の横で大人しく清雅を待っていました、とでもいうように振舞おうと努力した。

「ああ、十三姫さま。お待たせしてしまい、すみませんでした。参りましょうか」
そう言って、清雅は自らの手を差し出す。
まだ女官の目がある中で、清雅の秀麗への対応は本当の十三姫に対してであれば当たり前のものだったから、ついついその手を取ってしまった。
だから気付かなかったのだ。
その手を秀麗が取った瞬間に、清雅の瞳が楽しげに細められたことを。

「おい」

女官の部屋の扉が閉められた途端、清雅はそのまま廊下を歩き出そうとした秀麗の手を引寄せて、空いていたもう片方の手を秀麗の腰へと回す。
そうして秀麗の手を手近な壁に押し付けて、逃げ出せないようにぐっと力をこめた。
秀麗は突然清雅が起こした行動に体がついていけず。
先ほどまで自分の横を歩いていたはずの清雅が自分をまるで抱きしめるかのように押さえつけていることを理解した時には、もうすでに身動きの取れない状態になっていた。

「ちょっ…!何するのよ!」
手を押さえつける清雅のあまりの力の強さに顔を顰めながらも、秀麗は必死に抵抗を試みる。
しかしそのささやかな抵抗すら嘲笑うかのように、清雅は秀麗を覗き込むように顔を近づけてその口を開いた。
まるで口付けるかのように寄せられた顔の近さに思わず目を逸らしそうになる。

「なあ」
「な、何よ」
「盗み聞きで何か有益な情報でも得られたか?」
「!!」

しまった、思いっきり動揺した、と咄嗟に思ったがもうすでに時遅し。
秀麗の動揺した顔を見て、清雅はその凶悪楽しそうな笑みをさらに深くした。
「大方俺の弱みでも握ろうとしたんだろう?大した結果が得られなくて残念だったな」
こいつにはすべてがお見通しなのかと悔しくなったが、それを見透かされないようにと言い返す。

「結果なら得られたわよ」
盗み聞きなどしていないと嘘をつくこともできたが、あえてしなかった。
どうせ清雅に隠し事などできないに決まっている。

「そうか?例えばどんな?」
「…あんたがこんな昼間から女官の部屋に篭もって、色々してたとか…」
実に言いにくそうに答える秀麗を、清雅は鼻で笑った。
「さすがのお前でも、俺が部屋の中でしていたことは理解できるようだな」
「なっ…!」
清雅の言葉に驚きで目を見開く。
まさかこうもあっさりと肯定されるとは思っていなかったからだ。

「そんなに簡単に認めていいわけ?私が誰かに言いふらしでもしたら…」
「別に構わないが?」
「なんですって?」
清雅から返ってきた答えが想像していたものと違いすぎて、思わず反射的に聞き返す。
「お前がこのことを言いふらそうと、信じる奴なんかほとんどいないだろうからな。それにこれはれっきとした情報収集だぜ」

確かにそうだ。
清雅と秀麗とでは今までに積み上げてきたものの差が大きすぎる。
大方の官吏たちにとって秀麗は目障りな女官吏であり、清雅は御史台の能吏だ。
こないだまで冗官だった秀麗の言葉など、ここでは何の力も持たない。
それに清雅が情報収集をしていたというのも事実なのだ。
たとえそれに使った手段が、清雅にとってどんなに聞こえの悪いものであったとしても。

「………」
「大体お前、こんな弱みになりえることを俺があっさりと他の奴らに聞かせてやるのと思うのか?」
「…思わないわ」
「そこまでわかってるなら、何故理解しない?」
「…?何のことよ?」

「俺がこんなことを聞かせてやったのはお前だからなんだぜ、秀麗。」

まるで愛しい女に語りかけるかのように耳元で低く囁かれたその声に思わずぞくりとする。
「…ど、どういうことよ」
「まだわからないのか」
そうして耳元でふっと笑い、吐息を吹きかけながら彼は言った。
「お前を一番動揺させる方法は、これだろうと思ったのさ」
そしてお前が一番嫉妬する方法も。

秀麗は清雅からのあまりの言葉に二の句もつげなかった。
「そ、そんなことのためだけに女官を篭絡したっていうの?」
「そんなことじゃないぜ。俺にとっては十分に大事なことだ」
そう言って秀麗の体を自らの腕の中から解放してやる。
そういえば自分が清雅に抱きしめられるような体勢でいたことに、今更ながらに羞恥を覚えて秀麗は顔を赤らめる。
そのことを清雅が見逃すはずもなかった。

「どうした、秀麗。顔が赤いぜ」
「…っ、あんたのせいでしょう!」
「俺のせい?知らないな」
「〜〜〜っ!!」
秀麗の悔しそうな表情に、清雅は心底嬉しそうに目を細める。

「単なる情報収集で、お前がここまで動揺するとは思わなかったぜ」
「わかってるんじゃない!」
「さあな」
飄々と人の質問をすり抜けていく清雅に思わず殺意を覚えたのは、絶対に自分の気の迷いではないはずだ。

「…あんた、絶対いつか後ろから刺されるわよ」
「俺がそんなへまを踏むはずないだろう?」
「いいえ、踏ませてやるわ。誰もやらないなら、私があんたを後ろから刺してやる」
そう言って清雅を強烈な眼差しで睨みつけた秀麗に、清雅は満足気に笑った。





「いいぜ、お前が俺を刺す日を楽しみに待っててやるよ」
← Back / Top / Text

続き遅くなってすみません!