月も完全にのぼり、静寂があたりを周囲する時間帯。
本来ならば人の気配など見られないはずだが、ここら一帯だけは違った。
逃げ場などないとでも言うように高くそびえ立つ囲いの壁。
その中では、立ち並ぶ建物が明るく照らされ、華やかな衣の女達が店先に溢れる。
ここは江戸の遊郭、吉原。
男達が一夜の夢を求めて、金で女を買う街。
極楽浄土とも言われる美しく華やかな印象とは裏腹に、買われる女達にとっては地獄と言える場所。
その一角に佇む、一等豪華な建物。
風情漂う美しい外見だけを見れば、そこが遊女屋であるなどと誰にわかるだろう。
その遊女屋の二階、大きく障子窓の開かれた一室に彼らはいた。


一遊女の私室にしてはかなり広い部屋には、情事後のどこか気だるげな雰囲気がいまだ漂っている。
先ほどまでの名残も抜けぬまま、窓際に腰掛けて煙管を嗜んでいた男は、褥の中の女へと声をかけた。
「君はいつも褥の中で名前を呼んではくれないね」
「…不満ですか?」
おおよそ遊女が発するものとは思えないせりふを彼女は躊躇いもなく口にする。
それを聞いた男のほうは、不快に思うどころかさも楽しいという風情で薄く笑った。
「いや、そんなところも可愛いな、と思ってね」
「冗談は止めてください。どうせ私のことなんてそこらにいる妓の一人ぐらいにしか思っていないくせに」
「それは心外だな。私はちゃんと君のことを愛しているのに」
そう言って男はルルーシュの元へと歩み寄り、髪へと手を伸ばし、一房取って口付ける。
その仕草があまりに優雅で、見つめる瞳があまりにも熱っぽいから、いつも錯覚しそうになる。


忘れてはいけない。
私は遊女で、彼は客。
彼は私を真実愛してなどいない。
確かに気に入られてはいるが、それは一人の遊女としてだ。
彼はお気に入りの玩具をを扱うかのように、優しく、丁寧にルルーシュに接する。
それでも決して一人の女として愛してくれるのではない。
この店ではいつもルルーシュとしか遊びはしないけれど、他の店にだってたくさんの馴染みの遊女がいるのをルルーシュはちゃんと知っている。


忘れてはいけない。
客に恋した遊女など、破滅の道を辿るだけだということを。


「ルルーシュ…」
先ほどまでのたわいない会話はどこへやら、熱をこめて囁かれた名前はルルーシュの耳から侵食する。
その甘い声に、体中すべてを溶かされてしまいそうだ。
真っ直ぐに見つめる薄い紫の瞳が、吸い込まれてしまいそうなほど真剣な光を帯びる。
「おいで」
広げられた腕の中へと、静かに、ゆっくり、ルルーシュは歩みを進めた。
「つかまえたよ、ルルーシュ」
ふわり、と彼が羽織っていた衣で包み込まれ、そのまま抱きしめられる。
綺麗な顔で、それなのに、どこか恋に狂った男のような妖しい色香を彼が漂わせるから、いつも離れられなくなってしまうのだ。
このまま彼の腕の中に抱かれていたい、だなんて。


「…シュナイゼル、さま」
男女の戯れの最中には決して呼ばない名前を、ルルーシュは静かに口にした。
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いらないと思いますが一応解説すると、花魁(おいらん)→上位の遊女のこと。
ちなみに書いてませんが、ルルは太夫(たゆう)→最高位の遊女です。