静かな聖堂で少女は祈りを捧げていた。
ふわふわと広がるハニーブラウンの髪、同年代の少女と比べても格段に細い体。つい二月前に開いたばかりの薄紫の両目は、今はかつてのように閉じられている。
ステンドグラスから差し込む光が少女の横顔を照らす。その顔には疲労の色が滲み、肌はいっそ病的なほどに白かった。
どこか遠くで聞こえる鳥の声。ここは人の喧騒から離れ、あたりを森に囲まれた場所だった。この場所を選んだのはナナリーの希望だ。せめて最期くらい、静かに祈りたいからと。
閉じた目を一度開いて、まるで胸の奥に溜まる苦しみと悲しみを吐き出すようにしてナナリーは大きく息をついた。
「お兄様…」
目の前に横たわる棺の中で、静かに眠る体。
くせのない艶やかな黒髪に、血を失って温かみを失った白い肌。閉じられた瞼の下には特別綺麗な紫水晶が隠されていることをナナリーはちゃんと知っている。こうして永遠の眠りについてなお、誰よりも綺麗で美しい兄。
目が見えないことが恐ろしかった過去とは違って、今は残酷な事実からも目を逸らすことはできないことが恐ろしい。だが、もう現実から逃げることはできないのだ。
認めなくてはならない。兄が永遠に目覚めることのない眠りについたことを。
だがそれを認めろと叫ぶ理性の片隅で、ナナリーの心が悲鳴を上げる。どうして何も話してくれなかったの、どうして先に逝ってしまったの、と。
名前を呼べばすぐに「なんだい?」と返してくれる優しい声が好きだった。実際に見えはしなかったけれど気配で伝わってきた、名前を呼んでくれるときの優しい笑顔が好きだった。
目の見えなかったナナリーにとって、ちっぽけな世界のすべては兄だった。兄さえいればそれでよかった。兄のそばにいられるなら幸せだった。たとえその与えられた幸せが束の間の自由で、いつか壊れる箱庭の上に成り立つものだったとしても。
「お兄様…」
何度も何度も、そっと名前を呼び続ける。そうすれば目の前の兄が目覚めてくれるとでも信じているかのように。
「どうして本当のことを言ってくださらなかったのですか…」
呼びかける声に悲しみの色が色濃く表れても、ナナリーは涙を流さない。いや、流さないのではない。流せないのだ。兄の最後を傍らで看取ったあの時に、すべての涙は流し尽くしてしまったから。
「お兄様はずるいです。いつも自分だけ…っ…私だって…」
いつも自分だけ手を汚して、ナナリーには何一つ背負わせてくれなかった兄。ナナリーのためだと笑って、自分の幸せを捨てていた兄。ナナリーはその姿が歯痒くて仕方なかった。
自分も兄のために何かしたかった。自分のことばかり構うのではなく、兄自身の幸せにも目を向けて欲しかった。兄が罪を背負うというのなら、自分もそれを一緒に背負いたかった。
「私はそんなに頼りない妹でしたか…」
兄は悪魔だ。傲慢で、無慈悲で、どこまでもひどい人だ。こんなにもナナリーが兄と共にあることを願っていたのに、その小さな小さな願いを打ち砕いた。しかも二度と戻せないほど粉々に。
どうせなら、最期まで嘘をつき通してくれたなら良かった。そうしたら、こんなにも空虚な思いを抱えなくて済んだかもしれないのに。どうして兄の嘘に気付けなかったのかと、どうして兄を止めることが出来なかったのかと、自分を責めなくても良かったかもしれないのに。こんなにも、呼吸が止まりそうなほどに胸が痛むこともなかったかもしれないのに。
「最後の最後まで、お兄様は世界に嘘をつきましたね」
力と恐怖でもって世界を制した皇帝ルルーシュの真意に気づいた者などほとんどいない。彼が何故覇道を握ろうとしたのかも、何故ゼロが復活したのかも、人々は知らない。彼の死があらかじめ決められていたものだったと知る者が一体どれだけいるだろう。人々の記憶に残ったのは、悪逆皇帝ルルーシュが人々を支配しようと目論見、結果としてゼロという救世主の前に斃れたという歴史だけだ。
「これでお兄様の願ったように、世界は平和を取り戻した」
すべての憎しみの対象だった兄は消え、世界は話し合いという友好的な手段の元に一つにまとまった。
「けれど、これで本当に良かったのですか? お兄様のしたことは確かに許されないことばかりだった。でもこれでは…あまりにお兄様が報われなさすぎます…」
だが兄はきっとナナリーがこう言おうと、困ったように笑って言うのだけなのだろう。自分のことは構わないのだと、望むものを手に入れるには、代償が必要なのだと。
「お兄様…」
ナナリーは再び目を閉じて、両手を胸の前で組んだ。今更こうして祈るのは意味のないことかもしれない。だが、ナナリーは祈りたかった。少しでもお兄様の心に安らぎが戻りますように、いつかお兄様の思いを理解してくれる方が少しでもたくさん現れますように、お兄様が残したこの世界に少しでも長く平和が続きますように、そう強く願いを込めて。
「聖女の捧げる祈りで、神の心は動くのだろうか」
背後の床でかつり、とブーツが立てた小さな音。その音が響くと同時に飛び込んできた声は、その静かな場所にそぐわないほど、妙に大きく聞こえた。
どこか自信に満ちて凛とした声。この声の持ち主をナナリーは良く知っている。ゼロとして、ブリタニア皇帝としての兄の傍にずっとあり続けた人。ナナリーが関わることのできなかった裏側まで、兄のすべてを見てきた人。
「私は聖女などではありません」
ナナリーは振り返りはしなかった。声を出す前から、足音でナナリーには誰なのかわかっていた。わかっていたからこそ、ナナリーは振り返りもせずに名前を呼んだ。
「C.C.さん…」
「驚かないんだな、私がここに来たことに」
「きっといらっしゃるだろうと思っていましたから」
「そうか…」
ぽつりと呟くと、C.C.はナナリーのすぐ横にまで足を進め、そこで静かに膝を折った。
「挨拶ぐらいはしたかったからな…」
そういって手を伸ばし、兄の頬を撫でるその姿はまるで母親のようだった。喜ぶでも悲しむでもなく、ただ慈しむために頬を辿る指先。その優しさは、きっと兄に必要なものだった。あれほどの重荷を背負い続けてきた兄には、きっと。
「一つだけ、お前に聞きたいことがあった」
「なんでしょう」
C.C.はようやくナナリーに向き合った。この場に現れてから一度も合わされることのなかった視線が重なる。
「恨んでいないのか、私を」
「恨む?」
「私がルルーシュにギアスを与えなければ、ルルーシュはゼロになることも、修羅の道を歩むこともなかった。こうして命を奪われて永遠の眠りにつくこともなかった」
C.C.はナナリーを前にしても顔色一つ変えない。だが彼女らしくない言葉から、確かに彼女が後悔しているのではないかと、ふとナナリーは思った。
「いいえ、私はC.C.さんを恨んだりしません」
ナナリーはきっぱり言い切った。
「何故だ?」
「C.C.さんがお兄様に力を与えたといっても、それを望んで使ったのはお兄様ですから」
予想していたこととはいえ、兄とまったく同じ言葉を紡ぐ妹の姿に、C.C.はかすかに笑った。
「お前も、あいつと同じことを言うんだな」
後悔などないと言い切った彼の姿が、今目の前の少女に重なる。それはC.C.にとって不思議な感覚だった。
「お前たち兄妹は、私に優しすぎるな…」
その声は、魔女と呼ばれた彼女にしてはずいぶんと弱々しく、儚い思いが込められていた。果てしない長い時を生きてきた、彼女の切ないまでの思い。
そのまま思いを馳せるように目を閉じてしまったC.C.に、ナナリーは静かに語りかけた。
「ねえ、C.C.さん。私も一つ聞きたいことがあるんです」
「なんだ?」
「お兄様は人々の幸せを願って、私たちに明日を残してくれた」
明日を望む人々のために、世界で一番の嘘をついてまで。
「でも、お兄様の幸せは? お兄様の願いは何処へいってしまったのでしょう? 人々が幸せに暮らせる優しい世界の中に、お兄様がいないのは何故なんでしょう?」
「ナナリー…」
「自分勝手な願いだとわかっています。あれだけの罪を重ねたお兄様ですから、罪を償う義務がある。それはわかっています。それでも、私は願わずにはいられないんです。どんな形でもいいからお兄様が生きていてくれたのなら、って」
ナナリーはほとんど呟くようにそれだけ言って、俯いてしまう。C.C.はナナリーの問いかけには答えなかった。そのかわり、彼女は空を仰ぐように上を見上げ、ぽつりと呟いた。
「ギアスは願い、なんだそうだ」
「願い?」
「ああ。自分にはできないことを人に望む。そう希望を持つことはギアスに似ている、と」
「お兄様が言ったのですか?」
「ああ」
「そうですか…」
兄が残したその言葉を、ナナリーは今初めて知った。人が人に願うこと、その思いを未来へつなげていくこと。
「なら、私はお兄様にギアスをかけていたのかもしれませんね」
優しい世界でありますようにと願ったナナリーの思いを、兄は未来へ繋いでくれた。誰も悲しまなくてすむ世界など理想論かも知れない。だが、ナナリーは知っている。それを確かに望み、そして望まれたからこそ叶えようとしてくれた人がいたことを。
「そして私ももう一度、お兄様にギアスをかけられた」
この世界が少しでも安寧でありますように。いつまでたっても争うことをやめない人間という生き物が、少しでも長く争いを忘れていられますように。
兄が未来に託したその思いを、願いという名のギアスをナナリーは確かに受け取った。
「お兄様…」
胸にこみ上げてくる思いのままに、ナナリーはしっかりした声で兄の名を呼んだ。必ず兄の意思を引き継ぐと、そう覚悟を決めて。
その時、背後でかたりと扉が音を立てた。それに驚いて振り返ると、その扉の傍には仮面の騎士が立っていた。
「ゼロ…」
護衛としてナナリーをこの場所まで連れてきた男は、C.C.の姿を目に捉えても騒ぎたてることもせず、じっとそこに立っていた。
「そろそろ行かなければならないのではないか」
「…ええ、そうですね」
ゼロの姿を見るたびに、目に焼きついて離れない兄の最期が蘇ってくる。それはひどくつらい記憶だった。
兄を殺した、かつては幼馴染だったはずのこの人の前では、自分を取り繕ったりはできないだろうと、直感的に感じていた。こうして向かい合っているだけでも、胸の奥から溢れ出しそうになる様々な思い。それを押し留めようと、ナナリーは必死だった。
だが前に進むためには、避けて通れない道なのも事実なのだ。
「あなたも選んだのですね。少しでも皆が平和に暮らせる明日を掴み取るために、お兄様の願いを受け取ったのですね」
ぎゅっと小さな手を握り締めて、ナナリーは思いの丈を彼にぶつけた。
兄の思いを受け継ぐ者として、仮面を被り続けると決めた人。自分のすべてを世界に捧げて生きると覚悟した人。
ならばナナリーも兄の、この人の思いに応えよう。兄が自らの命で贖ったこの世界、守り抜くのは自分だ。
「…行きましょう、ゼロ」
もう悲しみに暮れることはしない。もちろん心はまだ悲鳴を上げるように痛む。だけど、自分は歩き出さなければならないのだ。自分のために、人々のために、世界のために。
ナナリーはもう振り返らなかった。だがその場から去る前に、最後にもう一度だけ、心の中で名前を呼ぶ。

お兄様、愛しています―――……

枯れたはずの涙が一筋、静かに頬を伝った。



「なあ、ルルーシュ」
ナナリーの去った聖堂に、C.C.は一人立っていた。
「お前はある意味で、最後まで世界の除け者だったのかもしれないな」
幼き頃に母を失い、庇護の下から放り出され、やっとたどり着いたはずの安息の地は地獄に変わった。隠れ暮らすようになっても、常に怯え続けて生きる日々。
味わった数々の屈辱、数え切れないほどの悲しみ。世界に見捨てられ、どこまでも世界から弾き出された存在として生き続ける苦しみ。
最後の最後まで、世界は彼に厳しかった。
「そんな世界のために、お前が尽くしてやらなくとも良かったんだぞ?」
だが彼はどうしようもないくらい優しいのだ。修羅の仮面を被ろうと、悪行の限りを重ねようと、いっそこちらが馬鹿馬鹿しいと思うほど彼は優しかった。優しすぎて、だから彼にはこの世界は残酷すぎた。
「だがそれでも、お前は幸せだったと笑うんだろう? 自分の望みなどとうに叶ったと、笑って最後を迎えたんだろう?」
一陣の風が聖堂内を駆け抜ける。C.C.はその風に美しい緑の髪を靡かせた。
「なあ、ルルーシュ…」
お前は幸せだったか―――……?

その問いに答えるべき相手は、静かに黙ったままだった。
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