「ロロ」
名前を優しく呼ばれるのが好きだった。

「兄さん」
それに笑って答えるのが心地良かった。

たとえ偽りの関係だとわかっていても、ルルーシュが目覚めなければ夢は真実に変わる。
このままずっと弟として、傍にいられる。
だから目覚めなければいい。
真実の記憶など忘却の檻に閉じ込めたままでいればいい。

そう、思っていたのに。



「ナ、ナナリー…っ」

無意識下で零れ落ちた吐息に、時が止まった。
僕の能力を使ったわけでもないのに、確かに部屋の時は止まった。

黒の騎士団から連絡を受けて兄さんを迎えに行って、クラブハウスまで戻って来て。
運んだ体をそっとベッドへと横たえると、戦闘から帰還した時にはすでに気を失っていたらしい兄さんは、その名残か時折苦しそうに眉を寄せ、荒い息を吐く。
その表情があまりにもつらそうだったから、兄さんの服の首元を緩めようと手を動かして、
「…ん……うっ」
服を緩める時、指先が少しだけ首筋に触れた。

苦しげに零れた声はそれと同時に仰け反らせた真っ白な首筋ともあいまって、想像以上に色っぽい。
額に流れる汗で艶やかな黒髪が張り付いて、余計に色気を醸し出している。
それを間近で眺めているうちに、むくりと心の奥底で沸き起こった凶暴な衝動。
しみひとつない真っ白な肌に歯を立てて、僕の跡を刻み付けて、ぐちゃぐちゃにしてやりたい。
僕のこと以外何も考えられないようにして、二人溶け合ってしまえたら。
悪夢に魘される兄さんの心を僕に向かわせることができたのなら、少しは慰めになるだろうか。
そこまで考えて、自分の思考の行き先にはっと我に返った。
だめだ。多くを望みすぎてはいけない。
そんなことをしたら兄さんは僕に見切りをつけるだろう。
僕達は“兄弟”という鎖に縛られているのだ。
ともすれば暴走しそうになる強烈な欲望を必死で押さえ込んで、兄さんの顔に無造作にかかる前髪を避けてやろうと伸ばした手は、しかし目的地に辿り付く前に行き場を失って彷徨った。

「ナ、ナナリー…っ」

兄さんが、その名を呼んだから。

ナナリー・ヴィ・ブリタニア。
兄さんの、ルルーシュの、血を分けた本当の妹。
兄さんがナナリーのことをいかに大事にしていたか、僕は知っている。
だって、ついこの前まで、彼女に向ける愛情はすべて僕に注がれていたのだ。
真実の妹を忘れ、偽りの弟を信じていた兄さんは、溺れるほどの愛情を僕にくれた。

でも、もう夢の時間は終わってしまった。
兄さんは目覚めて、そして僕という異物に気付いた。
「…う…ナナ…リ…っ…」
ぎゅっと強く閉じられた目尻から、ぽろりと零れ落ちた涙。
その雫は兄さんの仮面を洗い流して隠された心を曝け出す雫だと思った。
兄さんは僕を弟だと認めたその唇で、こんなにも残酷な名前を紡ぐ。
心の奥底では、本心では、兄さんが求めているのはナナリーだけなんだ。

とっくに気付いていた。
ルルーシュが、僕を弟として見ていないことぐらい。
だって兄さんは優しい言葉を吐きながらもいつも僕じゃない誰かを見つめていて、僕の瞳を覗き返してくれたことなんて一度もなかったから。
だけど、信じたかった。
僕に未来をくれると言った彼を。たとえ偽りだろうと弟だと言った彼を。
きっと嘘だと頭の片隅でわかっていても、見ないふりをしたかった。気付きたくなかった。
聞かなければ良かったなんて、今更思ったところでどうにもならない。

“兄さん”
任務のためなら平気で呼べた名前が、今はこんなにも重くて苦しい。
僕は、本当の弟にはなれない。
その事実を意識した途端に抑えきれない悲しみが溢れ出す。
“誰も僕と同じ時間は生きられない”
兄さんに放った言葉は自分自身を縛る鎖。
だけど…
「兄さん」
信じて良いんだよね?
僕に未来をくれるって、そう言ったよね?
口に出さない言葉は聞いてないのと同じことだから。
兄さんが僕をいらないとはっきり言うまでは。
約束はまだ有効だと、信じていていいんだよね?
不安を取り払うように、不確かな約束を確かめるように、静かに眠る兄さんの唇に、そっと熱を触れ合わせた。



苦しみ悩んだ末に彷徨って、辿り付いた薄暗いゲットー。
まるで何年もそこに暮らしていたかのような、陰鬱な雰囲気を纏わせて兄さんは立っていた。
「いいじゃない、忘れてしまえば。つらくて、重いだけだよ」
忘れてしまえばいい。
こんなに苦しむぐらいなら、投げ出せばいい。
「ゼロも、黒の騎士団も、ナナリーも」
兄さんを悩ませるものは、すべて捨ててしまえばいい。
「兄さんもただの学生に戻って幸せになればいい」
そうしたら兄さんは僕のものになる。
真実僕だけの兄さんになって、そして。
「何がいけないの?幸せを望むことが」
僕だって幸せが欲しい。
兄さんと、一緒の未来が。
「大丈夫、僕だけはどこにも行かない。ずっと、兄さんと一緒だから」
お願いだから、僕に未来を頂戴。

しばらくの間、その場を静寂が支配した。
兄さんも、僕も、何かに憑かれたかのように動かなかった。
やがてその静寂を破って、観念したようにぽつり、と漏れた声。
「そうだな…」
「うん。僕はずっと兄さんと一緒にいるよ」
「…そう、だな」
「だから兄さんも…」
「でも、俺はもう捨てられないんだ」
ゼロとしての思いも、騎士団も、ナナリーのことも。
自分の望むものすべてを手に入れるまでは立ち止まれないと、未来を諦めるわけにはいかないと、兄さんは寂しそうに笑う。
「すまない、ロロ。俺は行かなきゃならない」
その瞳を見て、ああだめだと思った。
すべてを捨てて、すべてを忘れて、僕と一緒に生きてくれはしないかと、少しでも考えたけど無理だった。
ここにくるまで光を見失っていたアメジストには、もう迷いはなかった。

「俺と一緒に来てくれ」
「え?」
もうきっとルルーシュは僕を必要としない。
そう確信していたから、僕は次の兄さんの言葉を飲み込めなかった。

「俺の未来のためには、お前が必要だ」

胸に熱いものが込み上げて、何かが瞳から零れそうになったのは気のせいなんかじゃない。
嘘かもしれない。僕を利用するだけの甘い言葉かもしれない。きっとそうだ。
でもそれでも良かった。
僕と一緒の未来を望むと言ってくれただけで、良かった。
一年間兄さんと過ごして、任務だと思っていた兄弟の関係に次第に縛り付けられていって。
兄さんが僕だけを見てくれるのが嬉しかった。
妹の代わりなんだと思うと怖かった。
妹に奪われてしまうくらいなら、僕が兄さんを取り込んで奪ってしまおうと思った。
だけど、気付いた。
僕はたぶん、僕を一番として見てくれる兄さんが好きだった。
でも今はそれ以上に、僕じゃなくて前を見据えている兄さんが好きなんだ。

「ロロ、お願いだ」
毒を含んだ優しい言葉に、これから僕はどれだけ騙されるのだろう。
愛情の裏に狂気を隠す彼の言葉に、どれだけ裏切られるのだろう。
でも、それでも僕は。
兄さんの傍にしかいられないんだ。

「ロロ…?」
「…なんでもないよ、兄さん」
俯いて黙りこくってしまった僕を心配して、兄さんが顔を覗き込みながら声をかける。
真っ直ぐに兄さんの顔を見られなくて、誤魔化すように微笑んだ。
「兄さん」
「なんだ?」
「ごめんね、ありがとう」
小さく呟いた言葉が兄さんの耳に届く前に時を止めて。
少しだけ背伸びして、動かない、けれどあたたかく柔らかい唇に、そっと二回目のキスを落とした。
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ルルーシュの嘘に気付いても言葉にされない限りは信じ続けたいと思うロロに萌えます。
あと、ルルーシュの傍にいたい、と思っていることに気付かないで、傍にしかいられないんだ、って自分を納得させようとしているロロとか。